再び不毛の地へ

幕末になって、参勤交代が止み、明治18年には、横川—軽井沢間に鉄道馬車が通じるようになっていました。そして、路線からはずれた宿場時代の軽井沢はその面影を失い、再び不毛の地とも言うべき原始の寒村に戻ってしまいました。そこにほのかな広明をさしかけたのはアレキサンダー・クロフト・ショウ師でした。
見いだされた避暑地

明治初年、内地雑居の令が布かれて外国人の日本国内旅行が自由になるとまずキリスト教欧米各派の宣教師たちが布教旅行をはじめました。英国聖公会の副監督のショウ師もその一人でした。軽井沢に師が立ち寄られたのは七月、軽井沢高原は新しい緑におおわれ、もっともさわやかな季節を迎えていました。故郷のスコットランド、移住先のカナダを思い起こさせる軽井沢に望郷の念をかられた師は、つるや主人仲右衛門の斡旋で大ヶ塚山(つるや旅館前の小山)に民家を移築して別荘を作りました。避暑地としての軽井沢の発見、別荘の第一号です。その後、ショウ師は友人の宣教師も誘って軽井沢の開拓を始めたのでした。
宣教師の宿から文士の宿へ

「つるや」が旅館業に転じたのは、ショウ師が軽井沢で夏を送るようになった明治19年頃のことであった。再び活気づいてきた新時代の軽井沢の中にあって、つるやもたびたび改装や増築がおこなわれました。明治半ばの「つるや」の宿泊客は、宣教師関係の方々が多かったのですが、日本人の別荘がポツポツと建てられるようになって、多くの文人、学者、実業家が訪れるようになりました。島崎藤村をはじめ、芥川龍之介、永井荷風、室生犀星、堀辰雄、谷崎潤一郎、志賀直哉、正宗白鳥・・・・・・。「つるや」は文士たちのたまり場となったのです。
「美しい村」の舞台に

「ご無沙汰をいたしました。今月の初めから僕は当地に滞在して居ります。」堀辰雄がつるや旅館で執筆をした小説の一つが「美しい村」でした。軽井沢を舞台に、別れた恋人への思いを断ち切るころ、宿の中庭で少女に出会います。その少女の面影を音楽的に構成したこの作品は、軽井沢の魅力を繊細に表現しています。小説「美しい村」は、現在、軽井沢町の街づくりビジョンとしての要になっています。